最期に、残酷な慈悲を






降りしきる雨は瞬く間に体温を奪っていった。
もうどれほどの時間が経ったのだろうか。時間の感覚も、そもそも痛覚も、もはや彼の身には残されていなかった。あるのは薄れてきた視覚と聴覚のみ。
(終わり……なのか)
薄れゆく意識の中で、ぼんやりとそんなことを考える。路地裏は流れ出る彼の血で真っ赤に染め上げられていた。もたれている壁を伝って血の海が広がる。この出血の量では、もってあと数分ほどだろう。
(案外、あっけなかったな)
己に対して嘲笑を浮かべる。
普段なら倒せない人数ではなかった。あれだけの数なら一瞬で倒せたのだ。けれど、前日に受けた傷が深手だったのが災いした。傷をかばって戦うこちらは、必然的に動きが鈍くなる。対して相手は傷一つないのが十人。致命傷を負うまでに、そう時間はかからなかった。
苦戦し、傷を受け、死の直前まで来てしまった。まさか、己の最期がこれほどあっけないものだとは。
(……我が、神よ……)
なけなしの力を出して空へと手を伸ばす。胸に下げていた十字架は、戦いのさなかに外れ、そのまま行方が分からない。神を感じるためにも、せめて星の輝きを見ていたかった。
けれど、雨雲に覆われた空に星など見えるはずもなく。彼は拒絶されたかのようにその手を下ろした。
(あなたは……私を拒むというのか……?)
それは、それまでの己を否定されたようで。あまりのことにわめき出したくなる。
(あなたの為と、私はこれまで戦ってきた。あなたの為と、幾人もの人間を殺した。あなたの教えに反する者から異端者まで、何人も何十人も何百人も! それを、ここに来てあなたは否定なさるのか……!?)
言葉にしようとして唇が動かず胸中で叫ぶ。ひどくやるせなかった。壁を叩こうにも、もう腕は動かない。
心を静めるためにまぶたを閉じると、己に傷を与えた同胞の顔が浮かんだ。
神の為と人を殺す彼こそを異端とし、止めようとし、最後には殺すことを選んだ同胞たち。もしも己のしたことが間違っているのならば、正しかったのは彼らの方なのだろう。
(ならば、私は誰の為に死ぬのだ……)
神に否定された以上、この死は神の為ではない。ともすれば、己は無駄死にとなるのだろうか。
ぞっとした。冷え切った身体がさらに冷えたような気がした。急に、死が恐ろしくなる。意味のない死は怖い。これまで、神の為と思って死を恐れていなかったぶん、余計に恐怖が彼を支配する。身体を捕らえて離さない。
(……会いたい……)
ふっとそんなことを思った。思って戸惑う。一体誰に。人を殺し続けた己に、まだ会いたい者がいるというのか。
戸惑う思考と裏腹に、恐怖に裏打ちされた感情が、会いたいと騒ぎ出す。
会いたい会いたい会いたい。せめてもう一度、彼女に……!
(ああ……)
思考と感情が合致する。
(君か)
思い出すのはあたたかな笑顔と優しい言葉。それから、恐怖に呆然と涙する姿。
彼女は彼を慕ってくれた少女で、彼が最初に殺した男の妹で、そして−−。
身体が傾ぐ。ずるりと壁に血痕を残しつつ、地面に倒れた。もう起きあがることもできないのが分かった。視界が曇っているのは、曇天だからだけではないだろう。
(私は……君を愛していたのだな)
もうずっと気づかなかった、いや、もしかしたら気づかない振りをしていた。気づいたら最後、罪悪感にさいなまれそうだったから。神の為にと思っていた彼に、後悔することはできなかったから。
最後に見た絶望した表情が、何度も現れては消えていく。
けして許してはもらえないだろう。もう以前のように慕ってはくれないだろう。兄を殺した己が憎いだろう。
ならば。
(私は……)
恐怖が薄らいで消えていく。
一つの決意が浮かんだ、その時。
生き残っていた聴覚が、小さな悲鳴を聞きつけた。足音がこちらに向かってくる様子も感じられた。
閉じかけたまぶたを必死に開けようとする。薄ぼんやりとした視界の中に、当の彼女の顔があった。一瞬幻覚を疑った。だが彼女が彼の身体を抱き寄せたことが、その考えを消し去る。雨で濡れきった彼女は、どうやら泣いているようだった。死なないで、と何度も呟く声が聞こえる。
(……我が神、あなたは本当に残酷だな)
最後の最後にこんなことをしてくれようとは。どうせなら、彼女に憎まれていると思ったまま、死にたかった。そうすれば、この期に及んで、死にたくないなどと思わずにすんだというのに。
(だが、最期に会えてよかった……)
己が犯した罪はもはや償いようがない。けれどただ一つ。彼女の兄を殺した罪は、償うことができる。
(君の為に私は死のう。我が神の為でなくて、私が愛した君の為に。君の兄を殺した私が死ぬことで、それを、君への償いとしよう。だからどうか、もう泣かないで……)
ゆっくりと祈るようにまぶたを閉じる。
耳の中で彼女の声がこだまして、静かに消えた。
             
〈fin.〉