バラは赤く。スミレは青く。砂糖は甘い。

 それから、あなたは——。
 
 
 
   * * *
 
 
 
 ローズマリーの結婚は、世間的にとても不幸なものであるらしい。
貧乏伯爵の末娘が金持ちの商人に嫁がされたというだけでうわさ話に事欠かないのが、それも後妻で、歳の差はざっと五十ばかり。豪商は大層な年寄りであり、ローズマリーはいとけない少女だった。じつに悲劇! 巷のひとは口々に言う。
おかわいそうなレディ・ローズマリー!
どれほどの財に恵まれようと、花の盛りはあがなえまい。
「——まったく、毎度のこと無礼で無粋で不躾で、いらないお世話なのですわ!」
 そう言って、やけ酒でもあおるように白磁のカップをくいっとかたむける幼妻に、アーサー・リーはやわらかく微笑みかけた。
まるい額の真ん中で眉根を寄せるローズマリーは、またぞろどこからか新手のうわさ話を仕入れたのだろう。そのたびに彼女が産毛の立った白い頬をぱんぱんにふくらませるのは、本人の言うとおり「毎度のこと」で、アーサーだって慣れたものだ。温室の花がきれいに咲き揃ったからと理由をつけて午後のお茶に誘ってみれば、気合いを入れて着飾ってきたので、ローズマリーの機嫌も今日はこれで良いほうである。
仕立て上がったばかりの春色のドレスは幼妻の愛らしさを倍の倍ほどにもひき立てる、じつに素晴らしい出来栄えだ——アーサーが自分の見立ての良さに満足していると、その間にもぷんすか文句を言い募っていたローズマリーに強く睨まれた。
「だ、ん、な、さ、ま」
 身を乗り出さんばかりの幼妻に、アーサーは持ち上げかけたカップもそのまま小首をかしげてみせる。
「うん?」
「笑ってばかりいらっしゃらないで、なんとかおっしゃってくださいませよ」
「レディは今日もとてもかわいらしいですね」
「まあ——」
 絹の手袋におおわれたちいさな手で赤みのさした頬を隠すように、伏せ目がちになって身をよじるローズマリー。奥に控える女中たちも微笑ましがって目を細めた。
アーサーもまた、恥じらう少女の姿に微笑みながらカップに口をつける。ローズマリーの好むものを、と用意したお茶の甘い香りに鼻先をくすぐられると、それだけで至福の心地がした。温室のガラス越しに射しこむ日差しのあたたかさも格別だ。
 そんな周囲ののどかな様子には目もくれず、ローズマリーは両手で頬をはさんだままくねくねしっぱなし。
「旦那さまこそ、今日も今日とて、渋くてハンサムで香水の香りにほんのりまざったパイプの残り香が煙たくて、そこにちょっぴりご年配の匂いもするのですけれどそれがまたおちつきと貫録のあるよい香りで、真っ白な御髪は光るようで、さきほどほっぺにキスしてくださった時に触れたおヒゲはくすぐったくて、お声などそのあたりの殿方には真似のできないおやさしい響き! それから……わたくしが刺繍してさしあげたハンカチを胸のポケットにお持ちくださっているのが、今日はとてもとてもとてもとてもとっても、嬉しくて……ああ、どうしましょうノーマ! しあわせで胸が張り裂けそうな時にはどうすればよいのかしら!」
「まずは大きく息を吸って吐いてそれから旦那さまのお顔をご覧くださいませ奥さま」
 有能な家政婦であるノーマの言に、ローズマリーは素直にしたがった。
つぶらな瞳に見つめられてアーサーの笑みが深まれば、ローズマリーもまた目元をとろんとさせていっそう赤く頬を染める。
「わたくしの旦那さまはまちがいなく、この国一番の男前ですわ……」
 そう呟きながら、しかし、ほぐれきっていたローズマリーの眉間に、ふたたびきゅっとしわが寄った。
「ですから、わたくし、皆の言いようが許せませんのよ。旦那さまはこんなにもおやさしくて、寛大で、素晴らしい方ですのに、意地悪で好色で気持ちわるくてよい香りもしない痛そうなおヒゲの男爵さまのところへ嫁がされそうだったわたくしを、憐れと思って娶ってくださったばかりに物笑いにされていらっしゃるから。くやしいのですわ」
「私はちっとも、くやしいことなんてありませんよ」
 カップをソーサーに返しながらそう言うアーサーに、ローズマリーは怪訝な顔をする。
 アーサーはそんな妻のまえに出されているカップを視線で示した。
「ところでレディ。そろそろお茶の感想を聞かせてくれると嬉しいのですが」
「——あら、ごめんあそばせ」
 温室に着いた時には出迎えたアーサーのキスと抱擁で有頂天になり、テーブルについてからは今朝仕入れたばかりのうわさ話を思い出して怒り心頭だったローズマリーである。先ほど苛立ちにまかせて飲みほしたお茶の風味など気にも留めていなかった。
 心得ている家政婦のノーマが絶妙な間合いで女中に目配せしていたおかげで、ローズマリーの意識が手元に向いた頃には淹れなおされたお茶がカップの縁からほのかなあたたかみをただよわせている。ローズマリーは嬉しげに声を上げた。
「お茶のなかにバラが! まあ、まあ……なんてかわいらしいこと!」
 アーサーはにこにこしながら首をかしげる。
「こういう趣向も良いでしょう。気に入っていただけたかな?」
「もちろんですわ! 旦那さまはわたくしを喜ばせてくださるのが、本当にお上手!」
 両手でカップを持ち上げ、ローズマリーはお茶の香りを楽しんだ。カップに浮かぶ砂糖漬けのちいさなバラは、そこで花ひらいているようにも見えて目にやさしい。花といえばバラをもっとも好ましく思うローズマリーには、とくべつ嬉しい趣向だった。
 カップを持ったまま喜びに身悶えしそうになり、ノーマにたしなめられているローズマリーの様子に、アーサーは何度かうなずいて自分の手際に満足する。
「あなたが笑うと、私も若返る心地がしますよ。レディ……私はこんなに、おじいちゃんですからね。いい年寄りが、若いあなたの愛くるしさと、伯爵家との縁戚に目が眩んで色気を出したと言われても、それは仕方のないことのように思うのです」
「仕方なくなどありませんわ」
 今度は慎重にお茶を楽しんでいるローズマリーが、あわてて言った。
好色と名高い男爵が、伯爵家に積年のしかかる借金の肩代わりと引き換えに末娘との婚姻を望んだ時、伯爵家当主であるローズマリーの父ローレンスは、これを限りに縁を切られてもかまわないからと、長年の友人であるアーサーを頼ったのだ。その後、アーサーは伯爵家の借金を完済し、のみならず男爵には到底都合できないほどの莫大な贈り物を用意してローズマリーに結婚を申し込み、かくして貧乏伯爵の末娘は祖父と孫ほども歳のちがう豪商の後添えになったのである。
 そんな経緯が詳細に広まれば、男爵こそがよい笑いものだというのに、そこは見栄っ張りの男爵である。アーサーがなにを吹聴するでもないのを良いことに、好き勝手なうわさを流してみずからの所業をうやむやにしようとしているのは明白だった。だからこそローズマリーは腹立たしい。
「旦那さまも、すこしくらい言い返すべきですわ!」
 ぷんぷんと湯気が立ちそうに言ってからお茶の香りにふっと気の抜けた顔をして、けれどまたすぐ険しい表情になる。ローズマリーの百面相を眺めつつ、アーサーは笑った。
「私のために怒ってくださるのは嬉しいですよ。でもね、レディ。そんな必要はありません」
「そういえば先ほども、くやしくないとおっしゃいましたわね」
「すこしも、ちっとも」
 くやしくないのが困りものです、とアーサー。
 いぶかしがるローズマリーから視線を外し、カップに手をかけて口元へ持ち上げた。もともとのお茶の香りとあいまって、砂糖漬けのバラがかもしだす甘い匂いは、目の前の幼妻のようであり、幸福の象徴のようでもある。
「皺枯れた年寄りが、期せずしてあなたのようにかわいらしい方を妻に迎えられたのです。遠からず、この温室の花の色さえ霞ませるほど美しくなるあなたの成長を、もっとも親しい距離で愛でられる——これは、男にとってこの上ない喜びですよ。くやしいことのあるはずがない。ましてや、それをやっかまれるくらい、腹が立つどころか、むしろ、聞けば聞くほど誇らしいほどなのですから」
「そのようなものですかしら?」
「レディももうすこし大きくなれば、わかります」
「まあ!」
 こどものようにおっしゃって、と、むくれっ面になるローズマリー。
 アーサーはお茶をひと口飲んでカップを戻し、軽く笑った。
「それに、うわさもあながち嘘ばかりとは限りません。かわいい末娘を倒錯癖の好色家にやるくらいならと取り乱しきったローレンスが切羽詰まっているのをいいことに、うっかり、彼の言うままあなたを妻にした私には、やはりそれなりの下心があったのだと思います。いまにしてみれば、老人の道楽に付き合わせ、あなたに花の盛りを無為に過ごさせてしまうことが、残念に思われてなりません」
 人々のうわさになるのも、やっかまれるのもどうということのないアーサーに、くやしいところがあるとすればその一点だ。
愛らしいローズマリーが側にいてくれるなら他になにを望むこともないアーサーだが、それでも世間的に夫婦である以上、いずれローズマリーは若くして未亡人となり、歳の離れた老人を夫にしていたという過去も彼女に付きまとう。それだけが申し訳なく、アーサーは苦笑気味に肩をすくめた。
 けれど、ローズマリーはなんということもないと言わんばかりのこましゃくれた様子で、ふふん、とかわいらしげに鼻を鳴らす。
「そのようなこと、旦那さまが気に病まれる必要はございませんのよ」
 ねえノーマ、とローズマリーが声をかけると、白髪混じりの髪をきりりと結い上げた家政婦が訳知り顔でうなずいた。
なんだろうかと首をかしげるアーサーに、ローズマリーは得意げに言う。
「わたくしの女盛りがむだになる、とのご心配は、すでに解消されておりますの」
「? それは、どういう」
「ローズマリーは旦那さまにこどもを生んで差し上げられるようになったのですわ!」
 どうだ、と言わんばかりに幼妻。
 アーサーはしばらく真剣に意味が出来ず、曖昧な笑顔のまま黙りこくった。そのあいだにローズマリーは、またしてもちいさな両手を頬にあて、やや恥じらいながら春色のドレスに包まれた身体をよじりはじめる。
「旦那さまにはさきの奥さまとのあいだにもう立派な跡継ぎがいらっしゃいますけれど、ルーファスだって、まだちいさいのですもの。弟妹がいればきっと喜ぶと思いますのよ。それに、さきの奥さまそっくりの蜂蜜色の髪に旦那さまゆずりの青色の目をした天使のようなルーファスが、旦那さまのお若い頃そのままのブルネットの髪とわたくしに似た緑の目のちいさな女の子を連れて、お庭を散歩などしていると、それはそれは絵になることでしょうから。わたくしとても楽しみなのですわ!」
「……ええと、レディ? すこし、おちつきましょうか」
「まあ、まあ! これがおちついてなどいられませんわよ、旦那さま!」
 声を高くするローズマリーにたじろぎながら、アーサーは助けを求めて家政婦のノーマへ目をやった。家令が一家の主人に仕えるように、主人の細君につき従う家政婦の彼女は、澄ました表情のまま向けられる視線になど気付いていないふうを装っている。
ならばせめて自分の気をおちつかせようと、アーサーはカップに口をつけたものの、もはやお茶の味も匂いもあったものではない。老人の心臓にはとにかく悪い話題だった。
「レディは健康な女性にちがいなくても、私は、ほら、おじいちゃんですからね?」
「それもご心配におよびませんわ。ルーファスが生まれたのだって、ほんの四年前ですもの。殿方はおいくつになっても大丈夫なものだとノーマも言いました」
「左様でございます、奥さま」
 家政婦が有能で忠実すぎるというのも困りものだ。
 苦笑するアーサーに、ローズマリーは胸のまえでちいさな手を組み、なお言い募った。
「旦那さまは、まるでご自分ばかりがわたくしを好きでいるようにおっしゃるけれど。わたくし、いまよりうんとちいさな頃から、お父様のお友達の、白髪のおじいさまが大好きでしたのよ。この先もきっとずっと、旦那さまより好きになる方なんていませんわ。神の御名にかけて。愛していますわ、旦那さま——だから、わたくしの花の盛りを捧げても、ちっとも、すこしも、惜しいことなんてございませんの」
「レディ」
「それに、わたくし、ちいさな子って大好きですの! なにせ実家ではわたくしがいちばんちいさかったものですから、つねづね、かわいい弟妹がほしいと思っていたのですわ。結局、姉として振る舞う機会はなかったのですけれど、そのぶん、ローズマリーはきっと良い母親になりましてよ?」
 かがやかしい娘盛りを、もはやすっかり良き妻、良き母として過ごすと心に決めているらしいローズマリーの脳裏には、これからの家庭の様子がふわふわとのどかに浮かんでいる。貧しくとも伯爵家の令嬢として教養高く育った彼女はおしゃまで愛らしいが、けれどやはり、夢見がちなところはまだいとけない少女なのだ。
 この熱烈な愛情も、だからあるいは一時の幼心に過ぎないのかもしれないけれど——アーサーは卓上のカップに目を落とし、微笑んだ。やはりノーマは良き家政婦である。いつのまにか淹れなおされていたお茶のなかで、ひとつ、ちいさなバラが咲いている。
 バラは赤く。スミレは青く。砂糖は甘い。
 それから、あなたは——。
「まったく、私にはすぎた春のひとですね。ローズマリー」
 アーサーがそう言って笑えば、ローズマリーも至極しあわせそうに、甘く白い砂糖のように、ほがらかに笑った。