砂の礫




私たち<古き民>は、クトゥラと呼ばれる絶対的な力を持つ長を頂点に抱き、砂漠で暮らしている。程度の差はあれど、一族にはみな同じ能力があり、それゆえ街から離れて暮らしているのだ。
今代のクトゥラはまだ若いながら先代を凌ぐ力をお持ちで、生まれたときには「かつてこれほどの能力を有した者が一族にいたか」と騒がれたほどである。
それに対し、私は力の弱い父母からその特徴を見事に受け継いでしまった。
そんな存在でありながら、私は幼い頃からクトゥラにお仕えすると決められていた。クトゥラの傍には年近い者を配するのが慣例だったのだが、ここ二十年ほどは生まれる子の数が減っていて、私にその役目を与えるしかなかったのだ。
だから、さして力のない小娘である私が、今もクトゥラの傍でお仕えできるのである。
「ソラク」
呼びかけに雑用を捨て置いて振り返れば、私のくすんだ錆色とは違う、煌めく金の髪が揺れた。重ねられた緑の衣は、貴い者だけが纏うことを許される上等なものだ。
鮮やかな色彩以上にそれを着ている人間こそが眩しく神々しいことは、一族の者なら誰もが知っている。
「はい、どうしたのですか?」
「どうやら我らの中に戦を企む者がいるらしくてな。街の人間と繋がっているらしいが、どうにも尻尾がつかめぬ。静かに、だが早急に対処したい」
二つばかり年上のクトゥラが厳しい顔つきで言った。まだ若者に分類される年齢だが、その表情は威厳を蓄え、見下ろす視線がよく似合う。
「では、まずはそれが誰なのかをはっきりさせましょう。内密に調査を」
「ああ、頼んだ」
「かしこまりました、アガ・クトゥラ」
跪き、礼をして下がる。与えられる短い言葉は信頼の証のように思えた。
私はクトゥラの大天幕から資料を求めて自らの天幕へ向かいながら、まだ記憶に残る過去の戦を思い出していた。
先代と今代の力で勝ちはしたが、一族が無傷だったわけではなかった。<古き民>は街の人間よりも数が少なく、二度目三度目に耐えられるとは思えない。戦は避けなければならなかった。
自らに割り当てられた小天幕に入ろうとしたとき、遠くの砂山にふと人影を捉えた。どうやら、辺りを見渡しているようだ。その不自然な動作から、同族でないことが見てとれた。
<古き民>は街の人間よりもずっと目がいい。私は天幕群に気づかれぬようにと、砂山でできた死角を回り込んでその男に近づいた。
「貴様、何をしている」
忍び寄って声をかけると、人影は助かった、と安堵の表情を浮かべた。顔には人懐こい笑みが浮かび上がり、隙だらけの身が晒されている。どうやら、危険な人物ではではないようだった。
「よかった。もう誰にも会えないかと思ったよ。君、街への帰り方を知ってるか?」
「なんだ、何かと思えば道に迷ったのか」
「恥ずかしいけど、実はそうなんだよ。久しぶりに街から出てみたらこれだ。やっぱ誰か連れてくるべきだったな」
男は頭をかいてこちらを見やる。どことなく不安げで、頼るような眼差し。断って一族の天幕群を見つけられるのも面倒だと判断し、男の期待に応える頷きを返す。
「わかった、街が見えるまで案内しよう」
「助かる! 俺はマハだ、君は?」
「ソラクだ」
「へえ、女の子なのに変わった名前だな。でも、君には不思議と似合うよ」
朗らかに笑い、マハは私の隣に並んで歩調を合わせた。
聞けば彼は、街で傭兵をしているらしい。よく見ればしなやかな筋肉を身につけており、腰の曲刀は柄に色褪せた布が巻かれていた。
それなのにどうして隙を見せたのかと尋ねると、マハは「君は大丈夫だと思った」と言った。
「もし私が盗賊だったらどうする気だったんだ?」
「それはないよ、盗賊だったら複数だ。仕事は確実にしなきゃ意味がないからね。それに、俺もそれなりに腕は磨いているから、君が斬りかかってきたら迷わず対応したよ」
物騒な話をしているのにマハは薄く微笑んでいて、言葉のほうが嘘みたいだった。
「そうか」
それだけ言って、太陽の暑さに息を吐きながら空を見上げる。
それから街が見えるまでに私たちが話したのは、今日の天候や街にある店のことだった。それなのに、マハは楽しそうに顔を綻ばせている。
彼の語る些細な事柄に、いつしか私も微笑んでいた。彼の明るい雰囲気につられたのかもしれない。
思えば、こんなふうに街の人間と話したのは初めてだった。
「もう大丈夫だ。ありがとう、ソラク」
「いや、次からは一人で砂漠を歩かないことだ。死ぬかもしれないから」
「そうだな、そうするよ」
にこやかに手を振るマハと別れ、私は自らの天幕に向かう。予想外のことで時間を使ってしまった。ここから戻るには少し時間がかかるだろう。帰ったらすぐに情報を整えて探りを入れなければ。
砂に足を取られないように気をつけながら急ぐ。熱砂の上に転ぶわけにはいかないので走りはしないが、足をいつもより早く動かせばそれだけ早く進むことができた。
一人の旅路、自然と視線は下を向く。それでも、歩き慣れた天幕群周りの地形を間違えることはなかった。
ああ、もうすぐだ。
そう思った。
そう思ったところだったのに。
「ソラク。お前、どこへ行っていた」
その声を聞き間違えるはずがなかった。十六年間、ずっと傍で発せられていたものだから。
「そんな、なぜ……」
そう、今代が昼におわす大天幕から出てきていたのである。
だが、そんなことは通常なら考えられないことだ。クトゥラは昼と夜の大天幕を移動する以外、外にでないのが決まりである。あるとすればそれは、そこから出ざるをえない問題が起こったときだ。
もしや、離れていた間に何かあっただろうか。それならば、状況を放置してマハの案内をした私の責任だ。
慌ててクトゥラの足元に跪き、地に額を擦りつけて許しを請う。焼けるように熱いが、今はそんなことを気にしてはいられない。
「申し訳ありません!」
「詫びなど求めていない」
頭上から言葉が降る。厳しく冷たく、突き放すように謝罪すら拒まれる。
いつもと変わらぬ美しい色彩で飾られた姿さえ、私を責めているように思えた。
「……俺を、裏切ったのだな」
押し殺すような声だった。
低く苦しげで、どうしようもなく絞り出した音。
「そんな!」
クトゥラは私が街の者と通じていると思い込んでおられるのだ。おそらく、マハといたところを見られて疑われているのだろう。けれど、私は誓って何も企んでなどいない。それをわかってもらわなければ。
言葉を尽くせばクトゥラも納得してくれるはずだ。きっと、私を信じてくれる。
そう自らに言い聞かせた傍から、ぎりりと拳を握りしめる音が耳に届く。
「許せぬ」
顔を上げれば、いつもは澄んだ湖のような瞳に怒りからか火が灯っている。クトゥラが愛用の小刀を持ち出したのを見て、もう私が何を言おうと理解されることはないのだと知った。
彼はその小刀で自らの左腕を斬りつけ、砂の上に血を垂らした。赤い雫が砂の奥へと沈んでいくのを、冷めた眼差しで見つめている。
それは、能力を使うのに必要な儀式。
足元が元通りの色になったとき、クトゥラがするりと右腕を上げる。それに呼応して持ちあがる砂の塊。膨大な体積になったのは、今代の力が凄まじいものだからだ。
「ソラク」
名を呼びながらクトゥラは腕を振るい、操る砂で私の胴体を押し潰す。地に張りつけられた状態で、唯一自由になる頭を動かして彼を視界に入れる。
砂はゆっくりと這うように首元へと迫っていた。
「どうしてです。私は何もしていない、企んでもいない」
「黙れ、もうわかっているのだ」
「聞いてください、アガ・クトゥラ!」
「ーー黙れ!」
一気に砂が集い、呼吸が苦しくなる。このままいけば私がどうなるかなど足りぬ頭でも理解できよう。
明滅を始める視界で、金の髪や緑の衣が踊る。
「今その言葉を言うのか? お前は、お前は俺を裏切ったではないか」
ぶれる焦点をなんとか彼に合わせる。そのときようやく、私はクトゥラが閉じこめていた感情に気づいた。
その瞳に宿るのは単なる怒りではなかったのだ。マハと共に歩くところを見られてはいたのだろう。しかし、クトゥラは私が街の者と繋がっていると思ってこんなことをしたのではないのだ。
「ソラク……どうしてだ、ソラクっ」
完全に地に縫いつけられた手では、その涙を拭うこともできない。
自分がこんなふうに想われているなんて気づかなかった。だって、このお方はクトゥラなのに。ぼやけた視界でも、こんなに美しく、光り輝いているのに。
向けられる強い想いには、もういずれの答えも返せない。
ただ、最期の言葉は決まっていた。
「アガ・クトゥラ」
その意味を、彼はどう捉えるだろうか。ーー臣下から与えられる“私のクトゥラ”という言葉を。
それを知ることができないままに、砂は私を抱きしめた。