木炭城の炎と毒





 凍てつく夜の廊下を照らす橙色の光が大きく揺れている。

 首の後ろで括った黒髪が跳ねる。黒いブーツが黒いカーペットを駆け抜けていく。

 髪とブーツだけではない。上着もズボンも、そして瞳孔すら黒い彼は、黒い城を駆け抜ける。

 吐く息だけが白かった。

 ニクスはその廊下を駆け抜けていた。

 くそ、と胸中で毒付く。

 全力で走っているが、身体は一向に熱くならない。

 身体の芯から熱が失われているような。胃の腑に山ほどの氷を詰め込まれたような。

 くそ。

 彼は走る。

 くそ。

「そんなわけ……」

 そんなわけ、なかったのに。

 

 

 悪名高い赤熊、バーナード・ウィルキンソンの居城があるのは、彼の名声から考えれば意外にも、王国の西の外れにある。

 深く暗い黒の森と隣接する彼の領地からは、質の良いワインが国内外へと出荷されている。

 血のように赤いそれは芳醇で、ウィルキンソンという名は酒飲みの間では垂涎ものである。

 だが、同時にそれは暗く、密やかに、冷たく、まるでワインがカーペットに染みをつくるようにじわじわと、恐怖を呼び起こす名でもあった。

 長く厳しい冬が終わろうとしていた。

 バーナード・ウィルキンソンの居城は、人を寄せ付けない黒い森と広大な葡萄畑の間に建っていた。不思議と黒い石で作られたその城は、「黒曜城」だの「木炭城」だのと呼ばれている。

 その木炭のように黒い城にも冬は訪れている。

 しんしんと降り積もる雪が緑の森も、畑も、そして黒い城も漂白してしまったようであった。

 氷のように冷えた木炭城。

 とはいえ春はもうすぐやってくる。春を迎える前の、最後の冷え込みがこの城を襲っていた。

 もうすぐ春がやってくる。

 城内は地中でそれを待つ木の根、花の芽のように、じわじわと胎動していた。もうすぐ訪れる輝く季節に浮き足立っていると言ってもいい。

 黒曜城には二輪の花がある。

 フロレンティアとフローレンス。

 燃える夕陽色の赤毛と、輝く朝日に似た赤毛の姉妹。

 バーナードの娘ふたりは、赤熊とあだ名される父親とは似ても似つかぬ美貌を誇っている。

 そして姉であるフロレンティアがこの春に、王都の有力貴族へ輿入れすることになっていた。いつも陰鬱な黒い城の中もそれなりに活気付いていた。

 フロレンティアに宛てて、王国内外から数多くの贈り物が届けられている。

 真っ白いレースや、煌びやかな宝石類。冬だというのに春の如く咲き誇る花々や、砂糖と果物をふんだんに使った菓子類。

 フロレンティアの部屋にはそれら贈り物がうず高く積まれている。

 そのどれも、彼女の気をひくようなものはなかった。

 部屋の中ほとんど全ての場所を埋め尽くした贈り物の中で、彼女は鏡台の前で髪を梳っていた。

 白いガウンの上に、滝のように流れる巻き毛。

 何度も執拗に梳いているが、さっきから一箇所、もつれてどうにも櫛が通らない場所がある。

 ため息をついて役立たずの櫛を放り出した花嫁は、鏡に映るどうしようもない巻き毛を批判的に睨みつける。

 父親があらゆる手管、情報を集め、金や権力やその他諸々、あらゆる手段を講じて段取りをつけた婚姻。

 あらゆる手段、だ。

 フロレンティアはこの黒く塗り固められたような城の中で蝶よ花よと育てられたわけではない。

 自分の家がどんな手段で財を成してきたのかは心得ているつもりだ。

 この婚礼は幸せなものではない。

 フロレンティアは父が自分に望んでいることをすっかり理解していた。

 彼女の部屋には方々の貴族や豪商から贈られた、婚姻祝いが所狭しと並べられている。

 その中で、フロレンティアの気をひいたものがひとつ。

 飾り気の無い小さな木の箱。赤いベルベットのリボンがかかっている。

 赤は彼女の好きな色だ。

 箱を開けると、一輪のバラ。血よりも赤い深紅のバラ。白い砂糖が雪のように塗された、砂糖漬けの深紅のバラ。そして香るのは、不思議と甘く誘う匂い。

 フロレンティアは笑った。

 にっこりと微笑んだ。

 彼女の笑顔はやがてくる春のように優しかった。

 そして、彼女はその花びらを優しくそっと啄ばんだ。

 

 

 そんなわけない、とニクスがフロレンティア姫の私室に駆け込んだときには、彼女は何人もの女中や執事に囲まれ、倒れていた。

 赤毛を海草のようにシーツの上に広げ、白い顔を更に白くして眠る姿は、まるで彼女そっくりの蝋人形のように見える。

 ……そうだとしたら、どんなに良いだろうか。

 ベッドの横には小さな木の箱が転がっていた。そこから零れているのは砂糖漬けのバラ。

 間違いない。

 彼女は、これを食べたに違いない。

 だが。

「なぜですか、フラン!」

 

 

 ニクスが城にやってきたのは五歳か六歳の頃。

 庭師の遠縁の子として、城へやってきた。

 だが本当のところは分からない。

 親も誰か知らない。この城にくる前は、どこにいて、なにをやっていたのか、霞がかかったように、記憶がはっきりとしない。

 素性のはっきりしない子供は幾人もいる庭師の見習いとして城で働いていた。

 王国でも一、二を争うほどに広大で大規模な庭。四季折々の花を見せる花壇も、色とりどりのバラが咲き誇る蔓だなも、植木で作られた迷路もある。そして、王国のみならず、大陸全土から取り寄せた珍しいものがある植物園も。

 それらを整備、管理するのがニクスの役目だった。

 庭師の老人に付いて、彼はいろいろなことを学んだ。

 バラの剪定の仕方。植物の病気の見分け方。冬の越し方。そして、植物の色々な薬効。

 ニクスは庭師であったが、薬師と言っても過言ではない知識と技術を彼は身につけていた。そして、それは彼に限ったことではない。

 ニクスが庭師である陰気な老人から植物の薬効などを学んでいる横で、遊んでいたのはふたりの城の姫であった。

 家の技とも言えるその知識は、姫であるふたりにも受け継がれなければならなかった。

「なにやってるのニクス」

「遊びましょうよニクス」

「遊びませんよ。それよりふたりとも、この花は何の役に立つか、覚えてますか?」

「知らないわ」

「教わってないもの」

「先日、みっちりお話しましたが」

 ニクスが成長し、陰気な老人が隠居すると、ふたりの姫を教育するのは彼の役目となった。

 彼は庭師であり、薬師であり、ふたりの姫の教師となった。

 そして、赤熊の悪名の源となる密かな仕事も彼が担うこととなった。

 植物が持つのは、薬効だけではないのだ。

 そうして何年か過ぎた。

「ニクス、なにをやっているの?」

「……姫様」

 作業台の横からひょっこりと覗いた赤毛の姫を、ニクスはため息混じりに見る。

「ここへはいらしていけないと、あれほど申し上げましたのに」

 特別に与えられたニクスの小屋である。

 ふたりの姫はもうすっかり彼の教えを修め、花開くように麗しい乙女と成長している。お役御免となったニクスは彼に与えられたもうひとつの仕事を淡々とこなしていた。

 彼専用の庭とそこで採れたものを加工する部屋は敷地の奥まった場所に与えられ、そこに立ち入ろうという勇気のあるものは彼以外にはいない。仕事仲間であるはずの庭師たちは滅多なことでニクスに声をかけたりはしない。

 孤独な仕事だ。

 彼に近寄ろうとするものは、特別用事があるもの以外にはいやしない。

「私は姫よ。どこへ行こうとも自由だわ」

 フロレンティア姫以外には。

「それに植物についてはあなたが教えてくれたもの。どれが危なくてどれが危険かは、心得てる」

「ええ。危険なものしかここにはありません」

「そうね」

 素焼きの壷の中から特殊な液体に漬けておいた葉を摘み出す。黒々としてツヤツヤと輝く肉厚の葉をすり鉢に移す。慎重に。

「危ないので、私には近付かないでいただきたいのです、姫様」

「その呼び方は好きではないわ」

「そうですか」

「昔みたいに呼んではくださらないの?」

「いまはもう、『昔』ではありませんよ」

「この前、マダム・クラレンスから閨の技を教わったのだけれど」

 かたーん、とニクスの手からピンセットが落ちた。

 染みだらけの作業台に黒い葉がペタリと落ちる。

 途端に、作業台からどす黒い煙が立ち昇る。

「……ッ!」

 慌てて中和剤を作業台に撒くニクス。もうもうと立ち込めた煙と、中和剤の臭気にフロレンティアは顔をしかめた。

「なにやってるの」

「……申し訳ありません」

「それで、閨の技を教わったのだけれどね」

「まだ続くんですか、その話」

「私が閨の技を駆使して貴族のボンボンを翻弄するのを、苦々しく思う誰かはどこにいるのかしら」

「少なくとも、ここにひとりおりますよ」

「本当?」

「ええ。マダム・クラレンスの技ではなく、私がお教えした技を使って骨抜きにしてやって下さい。あなたは大層出来の良い生徒でしたから。お手の物でしょう?」

「なによ、それ」

「なに、とは?」

「……嫁ぎ先が決まったの」

「それは……おめでとうございます」

「次の春に輿入れするわ」

「そうですか。では、それまでになにかお祝いの品をお贈りさせていただきますね」

「結構よ」

 フロレンティア姫は顎を高く上げ、炎のような眼光でニクスを射抜く。

 炎のごとき見事な髪を持つ姫は、その気性も炎に似ていた。

 ニクスはその炎に魅かれ、近付きすぎて燃えてしまう虫をなぜだか思い出していた。

「あなたからは、なにも受取る気はありません」

 

 

 そう言っていたね。

 だけど、だけどフロレンティア。

 きみは知っているだろうか。

 気付いていただろうか。

 きみが私の心のバラであることを。

 きみを失ったら、私が……私の心も失われてしまうことを。

 だからこっそり部屋に置いたんだ。

 砂糖漬けのバラの花を。

 きみの好きな赤いバラに、きみの好きな赤いリボンをかけて。

 気付いていたはずだ。

 絶対、間違いなく、きみは気付いていたはずだ。

 きみは、私の優秀な生徒だったのだから。

 

「なぜ食べたんだ」

 ニクスは必死になって、フロレンティアの治療にあたっていた。彼女が飲み込んだ毒ならば、すでに分かっている。砂糖漬けのバラに盛られた毒。

 盛ったのは、ニクス自身なのだから。

「なぜ……!」

 
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